鳥肌が立つほどの冷風を吐き出す電車とスーパーに、日本の夏は救われている、と言ったら言い過ぎだろうか。

昨夜も、眠いけど書いてないから眠れないという週末デフォルトな夜を過ごす。

そのくせ眠くても書いてすぐ寝るという流れには不服なので、YouTubeで寝落ちというスタイルにこだわっている。

そんなわけで何時に寝たのか、何を観ていたのかも忘れてしまったけれど、今朝はひとつひとつの細胞たちがぐっすり眠りについたままびくともしないから、タワシも布団に座ったまま静止していた。

それなのに白く縁起の良い蛇がニョロニョロとやってきて、プレゼントよろしく「思考のはじまり」を脳みそにぶん投げた。

「学び」とはなんぞや。

という高尚な問いを。

現実社会で生きていくための細胞はぐぅすか眠りっぱなしだったが、タワシの脳みそ店長はやる気満々で、思考の海にダイブして消えてった。

 

小学校から高校まで、勉強が面白いと思ったことは一度もなかった。

学ぶ事は苦痛と手を繋いでいたが、専門学校へ行くとなぜか呪いは解けた。

「学ぶ」は「真似る」から来ていると何かで読んだ事があるが、はたして真似るは学びなんだろうか。

知らないことを教えてもらう。

教える側の過去の記憶や知識が自分の中に入る。

いくら一語一句を逃さず理解し覚えても、それはやはり過去の産物で「今」ですらない。

「学び」は「未来」であるべきだ。

クリエイティブであってほしい。

それが真実であろうと借りてきた言葉では、聴いている我々の胸は躍らない。

本質は、限りなく近くまで行けてもやはり創造主だけのものだから、他人が使えばどうしてもふわふわと軽いのだ。

真似る、記憶する、理解する、はプロローグに過ぎず、そこから自分が何を思い、創造したか。

そこまでが学びであり、いわゆるそのあの遠足だ。

バナナは関係ない。

"想像"の世界は光の速さよりも速く進むので、一瞬でストーリーはエピローグを迎える。

しかし説明しようとした途端に時間の速さに変わる。

こちらが“創造"だ。

言葉も文字も時間がかかり過ぎる。

ゆえに壮大な量のストーリーをそこかしこに落っことし、見失ったままタワシは今を生きている。

生きることは遅延することだ。

どうしようもないほどの遅延とのギャップを埋めるのが学びのような気がしているタワシの夜のカレーライスである。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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