気持ちいいの危うさ

気持ち良いことは危うい。

これはわかりやすさにも繋がっている。

「わかりやすい」は理解しやすいのですぐに気持ち良くなれる。

なんなく理解でき、かつ、知った気になるのですぐに人に語りたい。

より難しいことを、よりかいつまんで、きっぱりと断定し、誰かが話してくれたらこんなにコストパフォーマンスの良いこたぁない。

さらにコピーアンドペースト、超イージー。

そうなると人の話が「自分をいかに素敵に見せるか」のキッカケにしかならなくなってしまう。

どういうことかと言うと、誰かが話しているそばから、どうにかその話題にかこつけて、自分が容易に仕入れた知恵を披露できないかと、そればかりが気になる。

だれも悩みを打ち明けちゃあいないのに、とにかく言いたい。

これはコミュニケーションでもなんでもないし、その人は我々を救いたいとか(そもそも救ってくれなどと頼んじゃいないが)これっぽっちも思っちゃいない。

とにかく「カッコいい自分」を見て欲しい。

それだけだ。

タワシにとったらだいぶん気持ち悪い。

しかし人は素敵、などと言う。

それがとてもとても悔しくてたまらないのだ。

 

マンデー。

「視える」と言われる人に今後を視てもらう。

「あなた、すごくストレス溜まりやすいね。特に怒り。偏頭痛とかあるはずだよ」みたいなことを言われて吹いた。

そしてその5日後、治療院でも「間違えてたらごめんなさい。ストレス、それも悲しみじゃなく怒りのストレスがすごい気がするのだけれど」とまさかの治療院で筋肉ではなく怒りで頭が痛いのかもしれない、と言われ、タワシ再び笑うしかない。

この誰もがおっしゃる、そして自覚もバッチ氏ある怒りはいったいどこからくるのだろうか。

タワシにはわかっている。

持って生まれた怒りだから。

生まれつきの怒りは死ぬまで抱えて生きるしかない。

手放すことなどできない。

なぜならそれを含んだタワシに、初めてユーモアが存在するのだから。

怒りをユーモアに替えてタワシは頭痛を吹っ飛ばす。

今週はほぼ薬は飲んでいない。

きっとユーモアが板についてきたのだろう。

明日も笑ってやる。

わっはっはっはっはっはっは。

わっはっ、それではみなはん、また明日。

この場所で。

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