週末は嬉しすぎてはやく目が覚めるのが常ではあるが、昨日は起きたら2時半で、そりゃあいくらなんでもはやすぎるだろうと思ったし、身体はまだまだ寝不足だわ、と訴えていた。
けれどもどうにもこうにも気持ちが週末を幕開けてしまい、ソファーで寝るという帳尻の合わせ方でグッドモーニング。
今朝はちょっと遅めに起きて4時、という。
感情をコントロールすることが、人生を折り返してもまだできないのは無邪気である一方で、なにか恐ろしい爆弾みたいなものを抱えている気もするのだ。
言葉で人を傷つけてしまう可能性。
そのことに時々怯える。
アウト・オブ・コントロールとアンダー・コントロールの世界を行き来する事は、うまくいけば飛躍に繋がるが間違えれば凶器にもなる。
湯を沸かすほどの熱い感情はとにかく一旦冷まさねば、と、一応気にしてはいるが。
「待つ事」が普通に存在していた頃はなんとなく「待たせる事」もできたけれど、人の足でなく、自動車や飛行機の力でもなく、光のはやさで気持ちを伝えられる世の中になってから、待つことも待たせる事も罪みたいになってった。
つまり、許されなくなってった。
だからなのか「間」が怖い。この「間」が「…」ではなく「答え」だと受け止められる事が怖くて、考えも浅いままに言葉を埋めようとしてしまう。
この隙に人を傷つけがちである。
気をつけろ、タワシ。
人は「間」に怯え、浅はかになってしまった。
「間」のある自分に価値はないという価値観が世の中に充満して、皆、忙しいふりをする。手っ取り早くインターネットを覗く。
「スマートフォンを見つめるわたくし」は外から見ても中から見ても忙しい。
スマートフォンを覗くだけで存在を肯定できるのだ。
ちょっと恐ろしい。
もしかすると、パソコンは小さくなるべきではなかったのかもしれない。
家に帰り、腹を満たして、ブーンと電源を入れる、ちょっと面倒な工程を踏むのが丁度良かったのかもしれない。
だって自分を肯定する手段はほんとうはたくさんあるんだし。
ぼぅっと考えたり、ぼぅっとした時間は記憶に残らなくとも脳にきちんと刻まれる。
あなたがゼロから自分で作り上げた思考だから。
離れるはずがない。
手軽に手に入り、頭が良くなった気分にさせてくれる情報ほど脳に蓄積されず、ぼぅっとするよりぼうっとさせられているとタワシは思う。
自戒の念を込めてそう思う。
そうだ、週末はぼうっとしよう。
明日は祝日だ、ぼうっとしよう。
あと4駅でこの電車を降りる、ぼうっとしよう。
これイケる、なんか楽しくなってきた。
だってまだ朝の6時14分だし。
今日はまだまだたっぷりあるし。
そんな事を言いながらYouTubeが観たくて仕方ないタワシ。
それでいいのだ。
自覚はいつかワタシを救うから。
それではみなはん、また明日。
この場所で。