便利という麻薬

例えば昔。

TVのチャンネルを変えるためにはTVの前まで行き、ダイヤルを回すなりボタンを押すなりしなければならなかった。

それが息切れするほど大変なことでもなければ、面倒なのでオモロくないけどこのチャンネルでいいや、と思ったこともなかった。

今思えば状況を変えるにはピッタリのひと手間だった。

立ち上がって歩き、手を伸ばせば、さて風呂に入るか、とかお手洗いに行っとこ、とかと同じように気持ちの切り替えにはもってこいだった。

手元で動画を切り替えたり、CMをスキップできることは一瞬とても画期的で、いや事実画期的なんだが、ずーっと続く終わりのない「今」のような気がして未来が空っぽに見える日がある。

未来が「今」のコピペの連続のような、コマンドCの後にコマンドDを繰り返し押してるみたいな気がしてならないというか。

きっと最初は目新しいのだろう。

え、こんなことができるの?

ウッキャッキャッキャッシュキャ、なんつって。

それが知らず知らずに当たり前になり、今までなんとも思わなかったことが億劫になり、億劫になったついでにいろんなことをしたくなくなり「何もしないでいいから楽」に縛られていく。

トモダチんちの電話番号を空で言えたコドモの頃はもう返ってはこない。

あれは記憶力云々というよりも、番号を空で言えた友だちは親友だったことを今もなお思い出せる、そういう印なんだと思う。

ちょっとした不便は記憶と味わいを同時に心に刻んでくれる。

どんどん便利になっていく世界ではあるけれどいつでもちゃんと考えていたいと思う。

不必要な便利にはきちんと玄関先でお引き取り願えるように。

便利を手に入れるかわりにこの先ずっと失ってしまうかもしれない大事なことがたくさんありそうだから。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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