11/30 11:30これを大きくくくってゾロ目と思いたい。この気持ちをわかってくださるか。電気の電の字が板チョコに見える人、いないだろうか。無性に板チョコが食べたい。

さて、本日は久しぶりに太極拳で(先週は祭日だった)肩が喜んでいる。

どえらい時間肩をぶんまわすので、とちゅうからポッポしてくるのである。

ぽ氏も一緒に習っており、タワシらが50手前で1番ヤングなその教室は、なんつうかすべての現象が出会い頭にスローモーションで穏やかな気持ちになる。

恐らくなうなコミュニティーは賢さを前面に押し出した人たちの集まりだと思う。

そういうYouTubeはタワシも大好きでしょっちゅう観ているのだけれど、それと並行して我々に重要なのは高齢者という圧倒的に次元の違う生き物と築くコミュニティーじゃないだろうか。

勘違いしないで欲しい。

あくまで友だちとしての関係である。

子どもの頃、ハウス食品世界名作劇場で観ていた赤毛のアンは友だちだと思っていたが、大人になって小説で読んだらアンの凄さに度肝を抜かれた、という経験がある。

アンから遠ざかったのはタワシだったんだろう。

アンの持つ世界観はぶっ飛んでいた。

高齢者を一括りにしてはいけないが、高齢者の世界観もぶっ飛んでいる。

あまりにもかけ離れていて予想だにしないところが笑えるし、笑うとあちらも嬉しそうだったりする。

たくさん笑えばいいのだ。

「おじーたん」とか「おばーたん」と話してあげなきゃいけないんじゃなく友だちがオモロいことを言ったから笑うのだ。

高齢者なら誰でもいいんじゃない。

オモロい高齢者と友だちになるのだ。

オモロいとは興味深いという意味である。

高齢者は全然オモロくないことでよく笑うが、一緒に笑っているうちに高齢者の世界観が自分に浸透してくるのがわかる。

そしてオモロくないことがオモロくなってくし、オモロくない冗談を言ってしまったりするようになる。

それは自分の世界を広げることこそあれ、狭めることはない。

それに「長生き」という圧倒的な勝利にとても安心したりする。

そのくせ時々力強く心強い事を言ってくれたりもする。

涙がポロリンチョしそうになることもしばしばだ。

年齢の枠なんか邪魔なだけだ。

敬意だけ残せばあとはいらん。

タワシは日増しに高齢者に近づいている。

年齢にあぐらをかかず、人として興味深い生き物でいるべく成長中である。

クワバラクワバラ。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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