例えば昨日、いつも清掃をしてくれているおじーたんが、とぉ〜くのほうでタワシがおじーたんに気付くのを待っていてくれた。
オフィスに入る時はセブンイレブンで買ったあめ玉とか、さっきまで聴いていたポッドキャストのイヤホンとか社員証をリュックにしまったり出したりしているので下を向いている。
だから気付かないかもしれない。
それでもおじーたんはモップを持つ手を止めてこちらを見ていてくれたのだ。
タワシがおじーたんに気づいてぴょこんと頭を下げるとおじーたんもぴょこんと頭を下げた。
こういう何気ない瞬間に幸せだな、と思う。
そしてこの幸せはちゃんと2人で積み上げたものだということも知っている。
タワシはおじーたんが朝、向こうを向いて掃き掃除をしていたら、そこまで行って「おはよーございます」と言うようにしているし、扉の向こうにいそうな時は覗いて挨拶をしている。
だからおじーたんもタワシがおじーたんを見つけるのを待っていてくれたんだと思う。
タワシがおじーたんにしたことを誰かが昔タワシにしてくれたのだ。
それが嬉しかったから誰かに同じ事をする。
幸せな気持ちはこういうふうに時間をかけて小さく受け継がれていくものなんだと思う。
「知っている」ということが人間として幸せなことなのかもしれない。
「それ」を知らなければ幸せにはなれない。
「それ」がなんなのかはあんまりよくわからないけれどたぶん優しさだ。
優しさとは大事に思われていることで、つまり愛されていることだと思う。
優しさの意味が大きくなり過ぎている昨今、本当の優しさが行方不明になっているような気もする。
優しさはまず誰かが与えてくれなくちゃ知りようがない。
そんな気もする。
世界がちゃんと優しさで満たされますように、と願う木曜夜のタワシである。
それではみなはん、また明日。
この場所で。