自分の思いを整理してみる。
未来で挑戦すること→大好きなアートと大好きな思考をガッチャンコ。
またの名を融合。
さらにまたの名をマリアージュ。
ついでにともだちっつうのも有りだ。
そしてここでいうアートとは。
アートが表現であるならアートはちゃんと自由であるべきだ。
誰もが名前を知っているアーティストだが本当は良さが全くわからんアートはそもそもアートだ。
誰もが名前を知らないが意味が痛いほどわかったり、わからなかったり、後付けてみたり、誰かに勘違いされてみたり、痛いところを突かれたりするものも生粋のアートだ。
タワシは後者のアートを楽しむために、新たなチャレンジをし始めている。
自分が創造したものを存分に鑑賞し、思考することで、そしてそのことを楽しむことでアートは完全に完璧に素晴らしきあなただけの作品になる。
誰かに評価されなければアートと呼ばないなんつうのは感情への冒涜だ。
評価されてもされなくても、堂々とそれはアートなのだ。
創造し、何を思考できるのか、誰かに勝手に思考されるのか。後付けで最もらしい言葉を紡いだるのか。
そういうことを楽しむゲームができる。
そんな好き勝手に遊んでみたところでどうしようもなく、本質は残ってしまうのだと思う。
思考が導くものだから。
もしくは本質に限りなく近いところで佇む「余白」だと思う。
余白は単なる空っぽじゃない。
大切なもののためにわざわざ空けておく場所。
王座である。
余白ある人生を。
それではみなはん、また明日。
この場所で。