みえないもの

去年は1年中サボってしまったので、今年はお正月に氏神様へお参りに行って頂いてきた御札に毎日手を合わせている。

今年から始めたルールは寝起きのまんまお参りしないこと。

顔を洗って髪の毛を濡らして口を濯いでから服に着替えてそしてやっとお参りできる。

時々そのままご飯を食べそうになって慌ててお参りする。

土日はごめんなさいして寝巻きでお参りをしてもいい事にした。

ギッチギチだと続かないからね。

気持ちの問題だからさ。

本当かどうかは全く知らんが毎日手をパチンパチンとしていると、いい感じに響く時とガックシしちゃう時があって、だから毎日実は音がきれいに響くように細心の注意を払っているのだ。

そしてまた勝手に思うのは、拍手がきれいに響く人はきっといい人だ。

人生でたくさん拍手をしてきただろうし、その間にきれいに響くやり方とか手が痛くないようにやるやり方を研究したと思うのだ。

拍手をする事が多いということは誰かの話をたくさん聴く機会に恵まれていたんだろうし、その話がつまらなかったとしても、聴くって姿勢は尊敬に値する。

つまり拍手とも人間とも向き合いながら生きてきたんだと思うのだ。

これからどんどん天才AIが出てきて、悪人と向き合わなくても済むようになるだろう。

いつでも耳心地の良い言葉や文章で人間の心を満たしてくれるような日々にシフトしていくんだろう。

それはとてもいい事だとタワシもワクワクしている。

しかし我慢ではなく、忍耐ができなくなったら同時に夢も希望もなくなるだろうし、叶えることもできないだろう。

あ、いや叶えられないことがダメということじゃない。

叶わなくとも挫折へのプロセスを味わう事で人はかなり成長する。

成長を手に入れる。

それもどれもこれも手に入れられないのだ。

それって人間がせっかく持って生まれた「感情」が死んだのと同じじゃないだろうか。

余白ってのは単なる伽藍堂じゃない。

一見無駄だと思われるような手間とか、成長に必要な忍耐とか、笑える程度の仕方なさとか、今どき流行らない頑張った自分が馬鹿を見たみたいな人に話せば笑えるような悲しみとか、わざわざ持ってきてくれたお饅頭なのだ。

と思う。

決して不幸につながる事じゃないそれらを味わえるのは人間の特権だし、生まれたからには手放したくはない。

 

さてと。

ゆっくりゆっくり準備をしてます。

『道草 問答』へようこそ。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

 

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