対話が蓄積していく。
とても長い時間がかかったような気もするし、これくらいかかるもんだと思う自分もいる。
ブログを書き始めて2年が過ぎて、タワシの良いところも悪いとろもバレて〜ら。
その中で少しずつ、書きんちゅと読みんちゅの間で対話が増えていったことを嬉しく思っている。
コメントがないからといって対話がないと思ってもいない。
あぁ、静かに見守ってくれてんな、とか、きっと何かを思考しているんだろうな、とか思っている。
勝手に。
なぜ嬉しいかと言うと、タワシにくれる対話には「アドバイス」がないから。
対話は対等でありたいと思っている。
これは教育ではなく対話なのだ。
指紋よろしく同じ人間などひとりもいないこの世界で、まるで物語を読むみたいに誰かの思考が、目の前にそっと置かれる感じは浪漫ですらある。
正解なんてないんだから。
誰のどんな正解か知らないけれどそんなものを押し付けたほうはただただ優越感に浸るだけだし、次からは優越感を得るためだけの遊びが始まるだけだ。
そんなものは対話じゃない。
押し付けられたほうは自分を否定し、思考が止まる。
対話は思考がうごめく、しかし対等なカオスでいい。
そっと置かれた数々の物語のどこを手に取るか、手に取らないかそういうことも自由でいい。
わくわくする世界がなんとなく残り、また社会という名の世知辛い世の中へ帰っていく時に、紐のように残ればいい。
駄菓子屋にあった糸引き飴の紐みたいに。
辛い時、悲しい時に、人混みに紛れてたどれやしないが、この紐を辿れば希望があるような気がする。
それくらいでいい。
でも絶対に必要な空間だと思う。
さてさて今朝は間違えて喜んでしまったが、明日は本物のカネヨウビ。
うっひゃっひゃ。
嬉しくて眠る。
それではみなはん、また明日。
この場所で。