「捨てる」とは

日々頭の中は忙しくて、気づけば何かを考えているのだけれど、先日

「はぁ。なんか嫌だわ。気持ちがいつも落ち着かなくて、あくせくしてて、余裕がなくて、平気で信号無視をする毎日なんて。」

と思った。

そう思った瞬間はそことは真逆の場所にほんの一瞬だけ移動した気になるわけで、実際は達観などしちゃいないがそういう気持ちの人間としてさらに思う事があった。

「達観」とは削ぎ落とされた状態だと思っている。

削ぎ落とされた状態になるには少しずつ、しかし大量の人間らしさみたいなもんを捨てなけりゃあならなくて、でも待てよ。

捨てるってことは実は最初は持ってなきゃならないんじゃないか。

と、そんなふうに思ったのだ。

無いものは捨てられないんだから。

捨てられないってことは逆を言えば最初から持ってないわけで、持ってないなら持った事がないわけで、持った事がないってことはそれをわかり得ないってことなのだ。

ブッダもキリストもタワシたちみたいな人間のことを救ってくれる。

救う事ができるのは救われる側の気持ちがわかっているからだ。

そのために人間として生まれる必要があったのだ。

さらに考えは神の裁きについてまで及んだ。

物事がうまくいかない時、神様はどうしてタワシを救ってくれないんだ、と癇癪を起こすんだが、神様が神様の良し悪しで人間をあからさまに救ったり裁いたりしたら、人間が人間として生まれてくる意味がないじゃないか。

人間は神の操り人形になってしまう。

人間である必要がないのである。

人間は人間であるからこそ泣いたり笑ったりと毎日忙しく生きているのである。

あれ、毎日忙しくていいんだっけ?

あれ?

よくわからなくなってきた。

寝る。

もうヘトヘトだ。

寝る。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

 

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