実家にあった古いスタンプ台を、どうにか使えないものかとゴシゴシ拭いていたら手にインクがついて、どんなに洗っても落ちない。
大人の手はこんなんじゃない!
っつってゴシゴシいろんなもんをつけて洗ってみるが無理だった。
大人気ないとか子どもらしくないとか言うけどあれだって言ったら「多様性」なわけで多様性を受け入れるって考え方自体、時代に逆行していると言えないだろうか。
つまりこうだ。
例えばフルーツバスケットにはたくさんのフルーツが入っていて、それを「りんごとバナナと桃とキウイと葡萄といちごバスケット」って言わないのは当たり前。
みんなフルーツ仲間なのよ。
ひいては食べ物で、さらにひいてはこの世に存在しているものなわけだ。
仲間なのだ。
違うのは事実ではなく捉え方なんだと思う。
だから多様性がどうのこうのと乱用しているとしたらその人は視野が狭いということなのだ。
本人は「多様性」を振り翳して自分の器は大きいでしょ、なんつってアピールしたいんだろうけれど、わざわざ取り上げることではないという認識で対するものを受容できていたならそれはその人にとっての普通の範囲内にあるということ。
多様性などという言葉を使おうなんて思いつかないものなのだ。
あぁ、眠い。
眠すぎる。
もう力尽き…た…
それではみなはん、また明日。
この場所で。