みんな一生懸命生きてるんだなぁ、としみじみ思う。
生きるということは、少なくとも自分を生かしてやらなきゃいけなくて、それは悲しいかな意思の力だけではどうにもならないことがある。
それでもほとんどの人はたぶん、自分には明日がある、と思っている。
嫌な明日が来ることがわかっていても、頑張って目を覚ましてほっぺたをパチコンと引っ叩いて気合いを入れてドアを開けるのだ。
対話っていうのはそういう、頑張ってる人たちの心を強く優しくするもののひとつじゃないだろうか。
物事を「所詮」という言葉で片付け、斜に構えて虚勢を張って生きることがカッコいいんじゃない。
さらに言うと、目前のことに真摯に向き合うことはカッコ悪いことじゃない。
カッコいいのだ。
これから世界はどんどん変化していくだろう。
何がホントでウソかわからない情報という名の誘惑に負けるのか、真実を見極めるのか。
自分が気持ち良いほうを真実とするのか。
真実かどうかはわからなくともこれが真実だとフラットに判断するためには、やはり思考し続けることが必要だと思う。
近い将来、人間と交流しなくとも、自分に最適化されたAIと交流するほうが気分はいいし、物事の進みを短縮できる。
だから人と、直接交流するなんてのは「タバコ」とか「お酒」のような嗜好品になっていくんじゃないかな。
そうなればわざわざひねくれた人間と交流したくなんかないわけで。
そうなったら誰にも相手にされない人間がどんな人間かは容易に想像がつく。
それではみなはん、また明日。
この場所で。