風の匂いで季節の変わり目がわかるし、
会社を出た時の空の色で季節が変わっていくのが見える。
今朝も寿司詰めトレインに運ばれて駅に着いた。
ダムの崩壊みたいに米粒が流れ出す。
ワタシの顔は完全に不機嫌になっている。
その流れの中、到着駅のホームからつるピカハゲ丸おじさんが満面の笑みでこちらを眺めているのが見えた。
「おじさん、なんで笑ってんの?」
寿司どものあまりの崩壊っぷりが滑稽で笑っていたのか、寿司たちがそれでも規則正しく会社へ向かう姿が微笑ましかったのか、それはつるピカハゲ丸おじさんにしかわからない。
しかしその微笑みが一気にワタシをメタの空間へと引っ張り上げたのは確かだ。
寿司から飛び出した米粒のワタシは箸の上から寿司たちを眺めている。
この感覚。
洗濯機がまだ二層式だったころ、Tシャツとタオルとおぱんつと、なんやかやがグルグルグルグル回っているのを眺めていたあの感覚だ。
自分が神さまにでもなったように、あっちでガヤガヤこっちでガヤガヤと忙しなく右往左往する様子を、助けるでも応援するわけでもなく俯瞰して見ている。
人が自分の心から離れて物事をみつめる時、見えている自分はもはや私ではない。
どこかのだれかだ。
だからこそ客観的に物事を捉えられる。
それは視野が広くなっていると言い変えることもできる。
確かに初めて自分が物事をメタで捉えた時はとても爽快だった。
何かを我慢して納得しようと努力する行為からの脱却は素晴らしい体験だと感じた。
しかし今は時々思う。
楽(らく)になる事は「人間らしさ」から遠ざかる事なんじゃないか、と。
楽しいこと、嬉しいことを感じると同時にどうにもできない怒りや悲しみをどうにかこうにか抑え込んで知らないふりをしたり、大事に抱え込むがゆえに真っ暗闇の中から抜け出せないでいる時、人間はとてつもなく人間らしいんじゃないだろうか。
その感情を進んで味わえだなんて言えないけれど、感じてしまった思いを責めることはないんじゃないだろうか。
全ての色が混ざり合うと黒になる。
黒く見えるそれは、実はたくさんの色を持って豊かに生きているんだと思う。
がんばれ、自分。
がんばれ、みなはん。