1年に1度友人と、8年前に亡くなった別の友人のお墓参りへ行く。
早起きをして出かける。
なにせ片道3時間かかるのだ。
普段は乗らない電車に乗り、特急でもガタンゴトンと長時間揺られ、乗り換えて旅列車みたいなコンニチハスタイルの車両で遠足気分を味わう。
旅列車は1時間に1本しか通らないので、スピーディーにお花屋さんでお花とお線香を買い、お寺まで歩いて、お墓を掃除してからお参りをする。
そして「また来年来るね」と約束して次の列車で帰路につく。
お昼を食べる暇がないのでお腹がペコペコになるが、待ち合わせた駅まで戻ると、お財布に真綿の感触を提供してくれる緑色の看板レストランでひとしきり会話に花を咲かせてバイバイ、というのが年中行事となっている。
友人のお姉さんにピカピカにしたお墓の写真を送るとすぐに返事が返ってきて、それはそれはとても喜んでくれるが、私たちはこの年中行事を本気で楽しんでいるだけなのだ。
彼女とは同じクラスで、席が後ろ前になった時によく話をしたので仲良しだったけれど、プライベートで遊ぶという事はなかった。
私が落書きで描いた絵を気に入ってくれてずっと部屋に飾ってくれていた。
その事を今でも時々嬉しく思い出す。
道を歩いていると1年に何度も彼女に似た人とすれ違う。
その度に彼女の事を思い出す。
当時、自転車に乗っていたら携帯電話が鳴り、その場でメールを読むと難しい病気の事、でも国試を諦めずに頑張るから、申し訳ないがノートを取っておいて欲しい、という内容が書いてあった。
周りに病気のことは言わない、とも書いてあったと思う。
彼女は病気に立ち向かい、国試も通り、卒業もした。
私に弱音は吐かなかった。
とても頑張ったヒト。
自転車に乗っていても時々彼女を思い出す。
今でも私たちはどこかで繋がっているんだと感じざるを得ないくらいである。
生や死について考える時、私たちは一方通行でしかない。
生きているから。
少なくとも亡くなった人たちは生きている人間よりもひとつ多くの経験をしているわけで、その経験の中で得た術を使って生きた人間とコンタクトを取る事ができるのかもしれないし、それを、経験のない私たちが否定はできない。
ただ、わからない、と言う事はできるが。
私はオベンキョをほとんどしなかった。
ゆえに知らないことばかりだ。
東京に住み、東京の位置とチーバくんのフォルムだけはわかるが、本州は他にどこにどこがあるのかすらわからない。
だからだろうか、比較的わからない事をわからないと言えるし、完全に否定できないならあるのかもしれないね、と思うタイプだ。
彼女が亡くなってからのほうが、より彼女と仲良くなった感覚がある。
不思議だけれど。
そしてそれはそれ以上でも以下でもなくここにあるだけだ。
来年は何を思うかな。
夜はポッドキャストの録音をした。
ほとんど話したことのなかった私たちだが、どんどん友達になっていく感覚があって、今夜は気づいたら2時間近く話していた。
寝る時間になりました。
おやすみなさい。