タワシはメンタル微弱町お腹痛い番地生まれであるゆえに、人生の2/3はおそらくお手洗いに行こか止めよか、間に合うか間に合わないか、冷や汗の中を泳ぐように生きている。
そのくせ会社が終わる10分前などは行けばいいのに行かなかったりして、結局会社を出る頃に行けばよかったと額を引っ叩くような性格でもある。
ついでに言うとシュガートレイン、チョコレートステーションを最寄駅としているので、会社帰りにスニッカーズを買おかやめよかについても常に悩みながら歩いている。
よくも毎日飽きずに同じことを繰り返し考えているもんだ、と呆れる。
岡本太郎センセが言っていたように、人間は毎日数えきれないほどの選択をしながら生きている。
たしかにそうだ、と思う。
では人はいつ選択をせずにいるのだろうか。
行き慣れた場所へ向かう時がそうなんじゃなかろうか。
道を右や左に曲がる時、タワシは何も考えずに曲がっている気がする。
しかし信号やホームに近づくや否や渡ろうか走ろうか、大人っぽく止まろうかなどと考え始めてしまう。
そう考えると「散歩」という行事は、貴重な脳のオアシスなのかもしれないな、なんて思うのだ。
それからマザーが作ってくれたご飯を食べる時も選択をしていなかった。
つまり無意識に当たり前に食べていた。
時々その態度がマザーの逆鱗に触れることがあったが、今思い返せば当然のことだ。
いただきますやごちそうさまはもちろんのこと、もっと美味しいねと言えばよかった。
ゴメンよ、マザー。
例えば全ての選択肢をYESにしたらどうだろう。
答えは決まっているので、選択しなければならないというストレスはないけれど、ノルマを達成したい欲が頭を占領して疲れ果てるだろうよ。
では、NOならどうだ?
これもまた「できることさえしない」というジレンマを呼び起こすはずだ。
大変だな、人間として生きるということは。
みなはん、今日も1日オツカレハンでひた。
アンタはエライ。
ゆっくりおやすみよ。