スッパッンックッ スパンクゥ〜 だ・い・す・き・よ〜

職場の最寄り駅で降りると、路面に落ちた桜の花びらや落ち葉が、雨に濡れたせいでコンクリートにへばりついていた。

ご存じの方もいらっしゃるかもしれないがタワシは潔癖症であるから、ゴミがすごくすごく気持ち悪い。

しかしそこらにへばりついた葉や花びらは、未だ葉や花びらでありゴミではなかった。

タワシの頭はそう判断したようで気持ち悪いと思うどころか、知らぬ間に過ぎていく季節を偶然見つけたような気がした。

まぁ一方でゴミを連想するのだからタワシの訝しさが透けて見えているわけでもあるが。
ではゴミとそうではないものの境界線は?と考えてみる。

たしかに今日のへばりついた者たちは到底ゴミには見えなかった。

しかし花びらの色が青白色から茶色に変わったら?

葉が乾燥し、人々に踏まれて粉々に撒き散らされたら?

残念ながらタワシにとってそれらはゴミになる。

木の枝に蕾としてついていたら見向きもせず、美しく咲いた途端に綺麗だと称賛し、地べたに落ちると儚さを感じる。

そして花の色が茶色に変わり、葉が粉々になるとゴミだと言う。

それらは最初から最後まで紛れもなくずっと桜なのに。

 

人が「桜」という時、1年前のタワシは満開の桜を思い浮かべたが、今日のタワシは濡れてコンクリートにへばりついたものこそを、桜だと思い始めている。

何をどう思うかで捉え方が全くもって変わってしまう。

そう書いておきながら、人は皆違うということを、自分が何かを伝えたい時は特に、忘れてしまう。

ただこの感動を人にも分けてあげたいという気持ちから発したはずが、共感してもらえないとなった途端に「なぜあなたはこれを理解できないのか」と苛立ちの感情が湧き上がる。

実に残念でならない。

だって、人に分けてあげたいという気持ちは素敵な気持ちじゃないか。

誰にも分けようとしないよりも温かいはずじゃないか。

しかし溢れ出した感情は人を遠ざける。

結果として、誰にも何にも分けるつもりがない人が穏やかで素敵だとか言われたりもする。

そういうジレンマの中で、タワシはどうして人の評価を重要視するんだろうか。

全く無視できたならもっと容易く幸せが手に入るとわかっているのに。

幸せについてタワシは根本的に考えなおすべきなのかもしれない。

 

今夜は金曜だというのに珍しくゴチャついた脳みそをばら撒いている。

何のオチもなくとっ散らかしたまま退散するタワシフライデーナイトなう。

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