風よ吹いてくれ!

朝、家を出て駅へ向かう途中、頭の中にとあるミュージックがリフレインしていて、しかしそれがなんの曲なのかが思い出せない。

駅に着いてやっと毎朝つけているテレビのニュース番組のBGMだと思い出す。

好きとか、嫌いとかの意識すらしていなかった音。

そういう音がいつのまにか自分の中へと入りこんで自由に再生ボタンが押されている事に驚く。

自分という人間は比較的日常的に思考しており、頓着していないものを勝手に取り入れ、再生し、リピートまでしているとは全く思っていなかったので、これは発見である。

頓着しそうなものを無意識で脳内に取り込み、ストックしておき、不意にそれがゴロッと落ちて、ふと拾う。

「なんだ、これ」と中をゴソゴソ覗いてみるとなかなかオモロイ代物だった、という事はしばしばある。

それを一瞬で調理して時々直感と言ってみたり。

今朝のミュージックはもう思い出すこともできない。

タワシの頓着無頓着は関係なく、脳が自らの意思で音を取り込み、勝手に再生しリピートするとなるとタワシは、脳の器になってしまいかねない。

卵と鶏問題のようになってきたぞ。

はじめに脳があった。

脳は話したり行動できなかった。

それで人間という器を作った。

みたいになるとえらい怖い話になってくる。

こんな怖い話はさっさと忘れてタワシはタワシという主導権を握ろう。

脳みそは出入りが激しい。

情報が常に出たり入ったりしている。

それともひたすらにストックし続けているんだろうか。

人間が忘れているだけで。

中野信子氏に尋ねたら真摯に答えてくれそうだけれど、知り合いではないので足りない脳みそで想像するしかない。

心(思考)は脳にあるのかないのか。

それはよく議論される。

タワシに難しい事はわからん。

脳にあるなら死と共に心も死ぬのか、それとも心は常に浮遊していて死してなお存在するのか。

だとするといよいよタワシを形作るものは単なる器にすぎないじゃないか。

もう痩せようなんて考えはポイッとしてもいいな。

「死」自体がこの世の問題で、あちらの世にとっちゃあ別段重要ではないのかもしれない。

このようにふわっとした事がここにはたくさん存在する。

だから人は学ぶんだろうが、答えばかりを求めたり、何でも簡潔にしてしまう人にタワシはひどく疲れてしまう。

だってその答えとやらは「今のところ」なだけなんじゃないのか?

簡潔にした時にこぼれ落ちた物語は無いものなのか?

そこをすっ飛ばして結論し、終わってしまったら人は考えることをやめてしまうんじゃないのか?

本質を知らない事は人を傲慢にさせる。

傲慢な人は行き止まりでつまらない。

対話をエゴの道具にはしたくない。

紙の上に垂らした水にストローで息を吹きかけると予測不可能に散らばっていくように、それ自体が模様になるように、対話を楽しみたい。

いつかそんな場所を作る。

満員電車に揺られてにっちもさっちもいかない右手で文字を打っているタワシなり。

なう。

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