タワシの永遠のテーマであり、同時に永遠に考えることがはやくなくなればいいテーマでもある「幸せ」について、が頭をよぎったので書こうと思ったが、いつものごとく思考は一瞬でタワシの中を通り抜けてからいなくなってしまうのだった。
「幸せ」とは感情的なものであり、そうである以上、感じる側の状態によって幸せ自体が変化する。
だから「幸せ」を定義することは無理なんじゃないか、と思う。
しかしどうしても常に幸せでありたいので「幸せ」を追ってしまう。
そもそも常に幸せであるってなんなんだ?
それが「常」になった時点でそれは「幸せ」からの降格を意味するんじゃないのか?
いや、タワシのいう「幸せ」は違う言葉に置き換えられるのかもしれない。
だとするとタワシの人生のメインテーマ自体が揺らいでくるが仕方ない。
受け止めよう。
まずは「幸せ」を解体だ。
幸せの中にいる時、さらにテンションがアゲアゲになる瞬間をタワシは幸せと呼びがちだ。
であるならば、デフォルトで幸せなのは問題ない。
というかデフォルトで幸せでなければタワシ的幸せを感じ得ないのか?
ヤバいぞ、タワシ。
どんだけ幸せに貪欲なんだ。
だとするとなぜいつも幸せについて考えているんだ?
…ムムム。
なるへそである。
それは全て心配のせいだ。
タワシの心配バカタレがここにも住み着いていたのだ。
幸せとは別の、そこからさらに気分が騒めく時、それはいつも放物線を描いている。
放物線の頂点で、これがずっと続けばいいのになぞと思いすぎるせいで脳が
欲する→持ってない
とミスアンダースタンドしてるのだ。
そして脳の残像だけがタワシの中にはっきりと存在して見えるせいでタワシ自身バグをおこしているのだ。
これはもしやアドレナリンの放出ではあるまいか。
アドレナリンが放出された瞬間を幸せと呼ぶのはもしかして少し雑すぎるのかもしれない。
うん、きっとそうだ。
幸せとアドレナリン放出は別件に違いない。
幸せはもっと奥深く味わいがあり、素気なく、しかし簡潔で継続的な暖かい日常、つまり今の事だ。
バカッタレのタワシッタレのバカ助タワスケである。
そしてもう残っているのは感謝だけである。
あぁ、お恥ずかしいだに。
ペッコリ145度のタワシウェンズデーの夜であります!