相変わらずタワシのブログは全く人気がなく、ベッコベコに凹む毎日なのだ。
しかし数人の変態的なタワシブログ大好き人間(略してないがタワシマニア)の方々に、折れに折れたタワシの柱を過剰労働並みに支えてもらいながら日々黙々と徒然ているわけである。
でもさ、よく聞くじゃん。
大スターが昔オーディションにことごとく落ちて落ちて落ちまくったんすよ、とか、全然売れなくてこれを最後に諦めようと思ったラストソングがヒットしたんすよ、とか。
超スーパーウルトラオーディナリーピーポーであるタワシだが、心の中はもはや悲劇のヒロイン気取りで、これは飛躍へのプロローグだと思い込んで悦に入っているのは否めない。
テヘペロ。
そしてそんなタワシに神様がまた自慢したくなる話をプレゼントしてくれた。
なぜか昨夜、3人の人からドドドッとメッセージが届いたのだ。
みなはん、タワシを絶賛(は言い過ぎだが)してくれる素敵なお手紙だったのだ。
おしえるがっこうの授業の後で。
これはもうタワシレボリューションというべき奇跡の頻発ではなかろうか。
ここでタワシは思うのだ。
この、じわじわとそしていつまでも心で感じることのできる嬉しみは五感以外の、しかしいわゆる第六感ではないなんらかの感覚によってもたらされるものなんじゃなかろうか、と。
見ることも嗅ぐことも聴くことも、口で味わうことも触ることもできない感覚。
それは思考に限りなく近い「心の遊び」ではなかろうか。
「言葉」とは八百万の感情をカテゴライズし、大まかにひとまとめにしてひとつに絞ったものだ。
だからひとつの言葉には八百万の感情が静かに眠っている。
誰かが届けてくれた言葉を、受け取った人間がその中から、自身だけが持つひとつの意味を拾い上げて感じるのだと思う。
そして拾い上げる意味は時によって違うのである。
もちろん人によっても。
五感という、一度は触れてしまえる感覚とは違う何か、記憶さえままならない心だけが、その特権を活かして遊ぶことができる感情。
それは人が人と向き合う事だけで完結するものなのだ。
高級なハイヒールも革ジャンもいらない、あなたとわたしがいるだけで完結するのである。
タワシはここに魅了され続けているのである。
そう、そしてまさにこれが「対話」だと思うのだ。
老若男女が対話する理想郷。
いや、理想に少し足りないくらいがいい。
早くそんな場所を作るのである。
開店まであと何百日だか何千日だかわからんが、そんな惜しい感じもまた、タワシのチャームポイントである。
早くみなはんと店でお会いしたい。
が、その前にまた明日。
この場所で会いましょう。
2件のコメント
え、これって
やっば公開されるの???
😆
おは!
何を隠そう
あたしはタワシマニアよ。