家路に着いたのは最終列車で、時刻で言うとシンデレラがガラスの靴を階段に置き去りにしたあとである。
つまり今日である。
しかし今日は6時に起きて掃除、洗濯、やると決めたことを絶対したる!と意気込んでいた。
昨日までのExtraordinaryは消えてなくなり、朝が来れば日常の始まりなのだ。
非日常の痕跡が残った悲しい朝は大嫌いなので、蚤の市で買った皿は熱湯をかけてから洗い、洗濯物は洗濯機へ入れ、リュックを干して風呂に入りそのまま寝た。
1時半を過ぎていた。
目が覚めると旅の残像はどこにもなかった。
よし。
しかし疲れ果てて浮腫んだ身体が重く、最高に眠い。
洗濯機だけは回す。
昨日買ったお菓子を一袋全て食べる。
楽勝だ。
それがヤバイ。
たかしを再生してぼーっとするがとにかく眠い。
気づいたら二度寝でとっくに昼も過ぎていた。
あぁ。
悪いほうの日常のはじまりだ。
が、しかし許そう。
疲れているんだから。
身体は動かんが思考はそこそこ冴えている。
YouTubeを見ながら考える。
足るを知りたい、とか比較の呪いから解放されたい、とか意味の意味とは?などなど。
タワシは心が清らかな人間ではない。
いつも足らずに欲しているし、嫌いな人が褒められると納得出来ずに1日中気持ちが悪いし気分も悪い。
そういう感情自体を否定する人もいるが、湧いて出てくる感情はどうにもならない。
個人的にはそんな感情であっても、とことん向き合う事によって嫌な自分から解放される答えが見つかると思っている。
意味づけではなく体感で。
腹落ちだ。
自分がどれほど醜い感情を持っているかを嫌というほど思い知る。
するとそんな自分は誰かと比較するに足る人間ですらない、とわかる。
そうすると嫌いな人が褒められている現実と「自分」を切り離して同時に存在させることができる。
こんな自分だが、自分なりにコツコツやれることをカッコ良くやっていればいいじゃないか、と本来の自分のまま前進できる。
嫌いだから嫌な言い方しかできない上に、嫌な人間なのでそんな書き方をしてしまう自分も許し、わざわざ書くが、褒められたがゆえにカッコイイ自分しか「自分」だと認められなくなり、認められるカッコ良さだけを追い求め、上っ面だけがどんどんカッコ良くなっていく。
そりゃあ磨きに磨いたカッコ良さはカッコイイだろうよ。
しかしだからそれが何だというのだ。
いつまで経っても中心が他人の中にあるカッコよさなんていらねぇ。
タワシはタワシの中心に心を置いて物事を捉えるし、思考するのだ。
タワシにとったらその方がとんでもなくカッコイイ。
だからこれでいい。
今日はすると決めた事を何ひとつしなかったし(いや洗濯とトイレ掃除はした)、醜い心を曝け出しもしたが妙に腹落ちする今である。
だからいい。
明日はガラリと変わって爽やかタワシでいけるかな。
いけないかな。
さぁ、どっち?な、お茶目なタワシの夜である。
それではみなはん、また明日。
この場所で、会いましょう。