ムズイ。
何かとても伝えたい事があるとする。
そしてその思いが強ければ強いほど、人は感情的になり支離滅裂になりがちで伝わりづらくなったりする。
一方で、完璧な文章を何の感情もなく丸暗記し、一語一句間違えず流暢に話したらどうだろう。
残念ながら、おそらく大変伝わってしまうんじゃないだろか。
敢えて残念ながらと言ってみる。
これは個人的なタワシの感情である。
伝わるから意味があって良しで、伝わらないから意味がなくてダメなのか?
そうなのか?
今や巷をブイブイ言わせているChat GPT様なんか、そしたら意味アリアリじゃん?
Gサマに意味があって、情熱を持ったぶきっちょさんに意味はないというのか?
尊敬に値するとしたらそれはGのほうなのか?
意味の意味はわかるし意味が大切なことも知っている。
しかし切り取り方よね。
どこを切り取るか。
そこに人間の本質が現れてくる気がしてムズる。
例えば誰かが一生懸命何かを伝えている。
タワシ的には何を言ってるのかよくわからんし考え方もちと違うが、その人の情熱を切り取れば、おそらく目を見て話を聴き、その人に対して発する言葉に境界線は存在しないだろう。
何を言っているのかわからんし自分とは違うという部分だけを切り取れば、つまり意味を取るならば、側から見ても境界線がくっきりと見えるだろう。
「人の良い部分を見る」という言葉に今までタワシはあまりしっくりきていなかった。
嫌いになることで人間関係に弊害が出ることからの逃避で、都合の良い大人の言い訳、といったニュアンスでとらえていた。
しかしこれはもしかするとこの「切り取り方」、つまりどこを汲み取ってあげるかどうか、綺麗で整った表面だけではなく、形が定まらない不安定さの中にある熱い想いを汲み取る事ができるかどうかなのかもしれないと思ったのだ。
それはとても素敵なことだ。
今までホントにごめんなさい、だ。
勘違いしたまま安易に馬鹿になんかしちゃいけない、と感じたサタデー・イヴ。
今日は和えて揚げない金曜日。
明日は少しくらい優しくなれるかもしれない。
なぜなら?
今日は?
そう、
・
・
・
気づいてしまったから。
ぷぷぷぷぷ。
それではみなはん、また明日。
この場所で。