土日は徒然ぼんくらであった。
何も思考していなかったわけではなく、アダマン号の静かだが強烈な全てのシーンが何度もフラッシュバックしていた。
しかし思考はブラウン管の砂嵐。
カオスの中で言葉にならなかった。
思考は常に流れているが、ブログを書くようになって意識的に思考し、留めるという技術を身につけた。
以前から放っておいても思考自体は生まれ続けていた。
しかしどこかのほとりでその流れをぼうっと見ているみたいに、ひらめきが目の前を過ぎていったらもう戻ってはこなかった。
対話、アート、本、その全ての要素がアダマン号に乗り込んでセーヌ川をぷかぷか浮いている。
とても不安定に。
不安定には動きがある。
だから発見が訪れるのだ。
不確かさを握りしめることでしか得られない、計り知れないものが存在することにも薄々勘づいている。
出入り口の法則も。焦るな、タワシ。
【ありあまる富】を聴け。
誰も何も奪えないんだから。
そういえばこないだぽ氏が言っていたような。
人間が眠らなければいけない明確な理由は見つかってないらしいよ、と。
ライスワークを辞められないでいるのでせめて覚醒時間を増やしたい。
そのためには睡眠を削るしかないのだがタワシは眠くて眠くて仕方がない。
よーく考えてみればこうしている間にも人は死へと向かっているのだから、もっとこうなんか違うやり方があればいいのにな、と思う。
我々は細胞に生かされている。
生きているわけではなく。
だから本当は生まれながらにきっととても不自由なのだ。
そして意志という曖昧な感情がこの不自由さに抵抗しているのである。
それを自由と呼ぶのだ。
睡魔からの抵抗、束縛からの抵抗、死からの抵抗。
抵抗を
恐れるなかれ
タワシ君
死からの抵抗は生きるということ。
ならば生きているだけで我々は自由を獲得したことになる。
が、そんな気はしない。
ノーーーッ!
なぜだ。
我々は本当の意味で(なんだ?本当の意味って)生きているとはいえないのか
なぜだ。
わからん。
もう全然わからん。
腹が減った。
空腹からの抵抗。
これは自由か?
わからん。
そもそもいろいろ間違ってるような気さえする。
放り投げてしまう。
ポイ。
それではみなはん、また明日。
この場所で。