ブギーバック

ランチの後に歯磨きをして机に戻る時、真正面にはK師匠がちょうど横を向いた形で座っている。

悲しすぎて肩がポロンと落ちてしまったのかと思うくらいにうなだれて椅子に座ったまんま居眠りをしている。

おそらくタワシよりも歳は下なんだろうが「おおきな木」のラストページの、じ様のようでウケる。

会社へ来る時はタワシよりもフォーマルスタイルだがなぜかいつも手ぶらである。

コンビニエンスストアーの袋だけを持っている。

仕事が入ると「タワシさん、朗報ですよ」と嬉しそうに仕事を押し付けてもくる。

しかし、実はちゃんとできているか様子を伺っていて、無理そうだとさっさと片付けてくれるので安心できて楽なのだ。

机で飲み物を飲んでいるところを見た事がないので「何も飲まないんすか?」と聞いたことがある。

「飲んでますよ。」と言っていた。

わざわざロッカーに戻って飲んでいるらしい。

いちいち違う。

そして和む。
さて。

タワシが日常的に迷い込んでいるパラドックスについてである。

「チータのパラドックス」と命名してみる。

三歩進んで二歩退がるという意味だ。

人間は物事を比較しなければ理解ができない生き物だと思う。

感情というものは「これよりこうだ」と比較した時に初めて生まれるものかと。

もしも私たちがカメラなら、目の前で起きている事象を単に写しているだけで、カメラには何の感情も生まれない。

それは何とも比較していないからだ、とタワシは考える。

ただ、見ているだけだから。

いや、写しているだけ。

行き止まりがないというのだろうか。

私たちは常に見聞きするものを過去の経験や知識と比較する事で感じることができるのだ。

たとえ初めて目にするとしても「今まで見たことない」と比較する。

どこかで止まって、何かを引っ張り出してくるみたいな。

ん〜、うまく説明できないけれど。

先に進む。

タワシのようにジェラシーの塊と怒りの塊のような生き物は常に比較しているわけだ。

自分と他を。

なので人や他と比較しないニンゲンになりたいとよく思う。

既に比較しない誰かと自分を比較しているわけだけど。

そう。

タワシ的思考でいう「比較しない」という事は、感じないに等しいのだ。

感じなければ比較できない。

ストックを持ち出さずにトンネルを抜けていく風のように何でも通していれば、比較する事はないだろう。

でも。

でもタワシはグッときたり、楽しいと感じたい。

感じるためには比較が必然で、そうなるとローランドの「俺か俺以外か」なわけで。

いやなんか違うな。

ジェラシーか無か、になってしまうのだ。

結局感情豊かに生きたければジェラシーもくっついてくるわけで、それがなんで三歩進んで二歩退がることになるのか、もうわからなくなってしまったが、そういうジレンマの中で生きているのだ。

あぁ、

じれったい こころをとかして

じれったい からだもとかして

もっと もっと 知りたい

は世界で一番歌がうまい安全地帯の歌である。

しかし今宵の選曲はこれだ

自分はもう 騙さないで

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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