シズラーでお腹がいっぱいである

22時14分。

I’m late! l’m late!

懐中時計をぶら下げたうさぎの気持ちが、今ならわかる気がする。

なんつって。

今日中に書き上げられるだろうか。

不安だ。

今日はぽ氏と赤坂へ。

博報堂の雑誌『広告』編集長の小野直紀氏、Takram渡邉康太郎氏、緒方壽人氏が赤坂の博報堂で雑談会をすると聞きつけたためである。

タワシは本とアートと対話の店を始めるべく、自分の脳みそにエンジンをかけ続けている。

そのひとつがこのブログである。

このブログは対話だろうか。

自己対話のような気もするし、ニッチなタワシマニアの方々へ問いを立てている気もする。

本日の雑談会はその名の通り雑談から始まった。

そして気づけば対話へと移っていた。

と思う。

雑談とは、対話を食事に例えた時にフォークや箸のようなものじゃないだろうか。

カトラリーなしで食事をするのは我々にはなかなか難しい。

箸やフォークがあっていよいよ食事が始まる。

そんな風に対話の入り口が雑談である事は重要な気がしたのである。

改まって「さぁ対話をしよう」というのはなんとなく学びに近いというか、そこから何かを得るという目的が透けて見えている。

それが良いとか悪いという事ではないのだけれど、学びという言葉が浮かんだ瞬間に蝶ネクタイをつけちゃうような、ハイヒールを履いちゃうような。

そこには多少なりとも虚栄心が生まれる気がしてならない。

せっかく対話をするならば相手の虚栄心にまんまと引っかかって嫉妬するといったつまらん対話にはしたくない。

対話は発見であり、協力でありそしてその先で遊びである。

そういうワクワクするようなものであってほしいのだ。

そうなると雑談から始まる対話は理想的だな、と現時点ではそう思ったのである。

対話は猛烈に楽しい。

この世界の外側にもうひとつ世界があったんだ、と知る行為である。

この「知る」という営みはとても優しい気がする。

その後で「自分自身が気づく」という余白を残してくれる。

余白とは、空いてしまった空間ではなく、気づかれないさりげなさで、相手にとって大切な部屋の鍵をそっと置いておく行為だとタワシは思う。

只今23時10分。

そろそろお目目も埴輪になってきた。

いびきをかくまでのカウントダウンは始まったようだ。

眠い。

しかし寝たら明日になってしまう。

今日のブログは今日が持ち主なので明日にまわすことはできない。

対話の店がどう展開していけばみなはんのきらきらした目に遭遇できるのか、もっともっと考える。

だから今日はもう寝るである。

 

おやすみなはい。

また明日。

この場所で。

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