夜霧のハウスマヌカン

暑い。

暑いと気持ちが悪い。

昨日はぶわっと爽やかな風が吹いたりしたので「気持ちいい」と言おうとしたのだが、5文字はちょっと長すぎるな、と思い、略して「きもい」と言ってみた。

ぽ氏に。

ぽ氏は「は?」とご立腹である。

そりゃそうだ。

オシャンシティー赤坂には爽やかな風が吹いているというのに。

それになんと言ってもヒトに「キモイ」などと言ってはならないのである。

スマン、間違えた。

それにしても言語は便利である。

思いを伝える手段のひとつとして、行動と張るくらいに便利である。

しかしそのスピードがだいぶん違うと思う。

例えるならば言語はテレフォンだ。

発すれば秒速で相手に伝わる。

一方で行動はお手紙である。

投函し、集配、仕分け、そして配達される。

手間がかかるぶん、時間もかかる。

どちらも言葉を使ってはいるが、テレフォンに比べるとお手紙は紙を用意し、ペンを用意し、文字を書き、間違えたといってはぐしゃりとして初めから書き直したりする。

動きを伴っているので行動とも言える。

気持ちいいと書くのが面倒でキモイと書いたとしても、封をする前にもう一度読み返すのでこりゃまずいな、と気がつく。

なかなか時間がかかる。

では時間とはなんだろう。

時間がかかることは悪いことなのか。

時間をかければそれで良いのか。

時間は高層ビルのように上下に存在するのか、左右なのか。

はたまた一点なのか。

行き来するのか一方通行なのか。

何もわからない。

時間がなんなのかもわからないくせにたった5文字を、長すぎるからと省略し、やり方を間違えて人を不快にさせたりする。

朝のラッシュで人を押し退け先へ行くだとか、なるはやでとか、手短にとか、考えたら時間の省略を強いられた側は不快に思うことが多い。

ならばやはり時間はそれなりにかかったっていいのだ。

短くしたりまとめたりすることが正とは限らないのだ。

そもそも短縮した時間を有意義に使えているのかさえよくわからん。

対話とは時間をかけて発見し、答えが必要とも限らない、とてもアヴァンギャルドなものである。

必要とは言わないが、有意義なものである。

対話もいろいろだ。

面と向かって言葉を交わす対話、天井を見上げながら思考を巡らせ自分自身の何かと対峙する行為、声というぶっつけ本番から一歩引いて余計だと思う部分を消したり、足りないと感じた箇所に一言付け加えたりして書く手紙だって対話である。

本当はみんなしている事である。

しかし無意識になってしまっていることが多い気がするので勿体無いなぁ、と思う。

無理強いはしないけれどみんな対話、しようぜ!と思うタワシの夜である。

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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