出口へ向かう波は何を思うのだろう

悲しき休日明けイン・ザ・モーニングはなぜか朝からパンチの効いた寝癖とむくみっぷりである。

これは「もう1日ゆっくりおしよ、タワシちゃん」と、タワシのボディエンヌが言っているんだが、しかしタワシは水道水で頭を濡らし、そのままチョイチョイと顔に水をかけて出勤である。

なぜならこれ以上ぽっちゃりでなんかはいられないのだ。

仕事はダイエットである。

語弊のないように言っておくが作業自体はしっかりやっている。

しかしオフィスではソファーでひっくり返ったカエルのようにはなれないし、どこかにお菓子が置き去りになってないかと血眼で探すこともできない。

気づけばコンビニエンスストアにいるなんてこともないのだ。

必然的にスリムビューティーになるということだ。

人生でスリムビューティーになった事実は1度もないが、限りなくデブーに近いぽっちゃりをキープはしている。

それでいい。

何事もほどほどにである。

さて、世間ではほどほどを筆頭に、程よくとかそれなりとかそんくらいでとか誰の印象にも残らない塩梅を好む傾向がある。

それは印象に残らないというちょっとセンチメンタルな趣きに反してかなりの技術が必要とされる。

なぜならヒトは本来どちらかに偏っているからである。

強いほうに偏っていれば才能をセーブしなければならないし、弱いほうに偏っていれば頑張らなければならない。

何年も前に一世を風靡した「ありのままの」が許されないということになる。

きっとだからありのままは流行したんだろう。

ほどほどに、なんて言われれば、一見手を抜いていいよと言われたような気がするが、本当にあなたの細胞は全力でいく事に不満だったんだろうか。

持ち合わせた才能は別に楽なんかしたくなかったんじゃなかろうか。

反対に「ほどほど」に届かぬスペックを持ち合わせたヒトにとったら、ほどほどになんて一見優しそうな表現を使いながら、ここまでは上がってこいよ、という脅迫じみた言葉に聞こえるんじゃなかろうか。

こうやって物の良し悪しを自分で決められないようになっていく気がしてならないのである。

「ありのまま」は清々しく響くが、実は自己責任が伴うなかなかタフな生き方だと思う。

ありのままに生きたらおそらく大勢に嫌われてそれなりに生きづらいだろう。

そこらへんの微調整を自分の責任において行うんだから簡単ではない。

しかしそれが生きるということじゃないんだろうか。

タワシは「ありのままの」がブームだったころ、あの響きをすごく気持ち悪いと思っていた。

しかし気持ち悪いと思ったのは、あの時期ほとんどの出来事は、ありのままという響きに誘導され、甘ったれた意味に成り下がっていた。

そのことがとても気持ち悪かったのだ。

ありのままそれ自体に気持ち悪さはなかったのだ。

理屈はある日突然明快に頭に降ってくる。

それは良くも悪くもひどく執着していた証だろう。

こんなに毎日理屈が降ってくるということはタワシは執着の塊野郎なのだ。

タワシこそ気持ち悪いではないか。

まぁでも仕方ない。

それでも明日も生きるのだ。

さくらんぼを食べて寝る。

それではみなはん、また明日。

この場所で。

ブログに戻る

コメントを残す

コメントは公開前に承認される必要があることにご注意ください。