NOPE

という映画がやべぇらしい、と聞いていたが、それがアマプラで観れるようになったというので観ることにした。

20年ほど前はレンタルビデオ屋でアルバイトをし、自称映画好きを名乗り、休日は社割で借りたビデオを10本ほど一気に観ては満足する、という日々を送っていた。

今思えばあの頃は「映画好き」という名に相応しい自分であるためにとにかく数をこなしていただけのバカモノだった。

しかし映画は本当に好きだったし、今でも大好きだ。

音楽も本もそういう時期を経て、パタリと止んでしまった。

歳をとったというのもあるだろう。

しかしタワシにとって1番大きな要因は、インターネットに費やす時間が多すぎるせいである。

さて『NOPE』だが、よくわからんかった。

ついに想像力も底をついたか。

ということで「NOPE 考察」でググる。

読んでもわからんかった。

これでは映画好きの名が廃るが、仕方ない。

見る、見られるというテーマが潜んでいるようだが、こういう事は外に言ってはいけないのでタワシのメガネで見る、見られるを思考してみることにする。

 

「見る」といえば物であれ人であれ好意的に見ている、と思いがちだが実は、嫌いだから見てしまうことのほうが、タワシは多い。

囚われていると言ったほうが正しいかもしれない。

そういう自分は面倒だし、そんなことを思っているなんて恥ずかしくて言えないが。

見る行為は盗むに近い感覚がある。

SNSの時代は特に物理的に盗むに近いな、と。

電源を入れればすぐに世界と映像付きで繋がれる現在は、見たものを心に刻まなくとも保存可能である。

切迫感みたいなものがない。

心に刻まなくとも、電波さえ届けばすぐに取り出して見ることができる。

タワシが制服を着ていた頃なんて、ともだちのフルネームと電話番号を空で言うなんて当然だったのだから。

良し悪しは別として今は覚える必要がないのだ。

待ち合わせに遅れることが相手の時間を奪うことに変わりはないのに、逐一連絡を入れることができるというだけで、遅れても大した事ではないというふうに時代は変わってきている気がするのである。

実際は待っているのに、暇を潰せるから待たせていないみたいな、変なトリックに引っかかったみたいだ。

逆に、見られるという行為には敏感にならざるを得ない。

半永久的に誰かが自分の情報を持ち続けると想像するだけで臆病になる。

その一方でこんな風に毎日徒然たりするわけだ。

精神がとっ散らかっちまってるとしか言えないが、目的のための手段として今はこれを頑張るんである。

というか眠くて思考もとっ散らかっている。

ここらで店じまいをしないとお恥ずかしいことになりそうだ。

悲しいかな、土日祝日のポンコツタワシは健在だ。

また明日からがんばるぞいと。

それではみなはん、またあした。

この場所で。

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