オフィスにはタワシを入れて4人しかいない。
午後の昼下がりに、歯を磨いて戻ってくると全員がシエスタに入っていることがよくあるのだが、これがタワシには恐怖の絵面そのものである。
ちなみに4人が4人ともめがねっ子なもんだから、めがねを外して寝ているボーイの目の下にできる影とかマジでスマンが怖すぎる。
見慣れない風景におののく。
謎の感染症にかかり気を失っているのかとか、実は怪物が去った後でみんなはもう生きてないんじゃないかとか、とにかく目を瞑って動かないひとの風景はタワシをとても恐怖させる。
もう夏だというのに、そしてそれなりに寝ているのに毎日ずっと眠いのは湿気のせいなのか?
世界で1番嫌いなもの。
それが湿気である。
湿気酔いというのだろうか、じめっとした空気ですぐに気分が悪くなってしまう。
ところでしゃべり方のせいなのか、一筆書きできそうにうすらボヤけた顔のせいか、人からは「さっぱりしてそうだ」と言われる。
くれあさんにも言われたばかりだ。
だが本当のところ、タワシは全然さっぱりしていない。
ひとたび誰かを嫌いになれば坂道を転げ落ちるように大嫌いになるし、坂下でスイーツを噛みしめYouTubeまで観始める始末だ。
嫌いの坂下から坂を、全然上がっていかない。
陰口だって酷いもんだ。
ただしそこは手短なタイプである。
手短に嫌な理由を述べたら終了。
それ以上「キライ」と、かかずらわっちゃいられない。
そういう意味ではたしかにさっぱりしているかもしれない。
ところで、タワシはヒトと“1対1”で“会って”対話する事の素晴らしさに先週土曜から立て続けに気づき始めてしまっている。
会って話した事でその人らを確実に前より好きになっている。
これが「対話」のなせる技なのか。
もしくは「会って話す」ということの意味なのか。
対話について、頭に一気に言葉が溢れてきた。
取り逃がしてしまうだろうけれど書いてみる。
まず「会う」は、会うことの前に超えなければならない障害がある。
互いに空いている日にち、時間、場所を合わせる必要がある。
時間をかけて、やっと会うのだ。
電源を入れるだけ、耳だけ聴いてます、だけでは決して味わえない種類の時間の共有だと思う。
そう、誰かに会う事は気楽ではないのだ。
ちょっとだけ覚悟がいるんだ。
それからタワシは、会ったから好きになったんじゃなくて、好きになるとわかった人と会おうと決めたんだと思う。
会って話して答えが出たようだ。
あぁ、わかっていて会ったんだ、と。
そしてタワシの場合、相手がいい塩梅に手短である、という事が案外重要不可欠だと気がついた。
決して、話が長いのがダメだと言っているんじゃない。
長い時間を自分の見栄えを良くするためにダラダラと使っているのがダメなのだ。
丁寧に伝えるために使っているならば全くもって気にならない。
その違いが重要だと言いたいのである。
だいたい前者は自分の話は長く、人の話は聞いていない。
人が話している間に次はこれを話そう、と自分の事で精一杯だったりする。
もはやこれは対話は対話でも自己対話であり、相手の存在が道具にしかなっていないのでグッバイまたね、さようなら。だ。
対話をする上でもうひとつ重要なのは、対等であるということ。
何かを教えてやろうという心持ちで来られるくらい迷惑な事はない。
あくまでも対等な関係の中で生まれる気づきがワクワクして楽しいのだ。
ブログを書くようになって否が応でも気づく作業が増えた。
気づくことの中には気づきたくなかったこともたんまりあるけれど、気づいたからには書いて書いて書いて書いて、さぁ、どうする。
わからんのでもっと書いて書いて書く。
それではみなはん、今晩は誠に長くかたじけない。
それでもまた明日会いましょう。
この場所で。