目が覚めたらヘッドがスッキリしていて嬉しくて飛び起きる。健康サマンサ、ありがたき幸せだっちゅ〜の。

昨日までのうなだれタワシが嘘のようだ。

タワシヘッドはヘッド以上の主張をせず、タワシはタワシらしく淡々と朝の支度ができている涙。

夕方に行ったクリニックで処方されたメディスンが効いたのかもしれない。

なんでもないような事が

幸せだったとおも〜う

は、まさにこんな朝にぴったりの曲、ではないがいつ何時どんな曲を聴こうが聴く耳の勝手である。

 

振り返ってみるとなんだかあの日々の中で幸せの根源とやらが育まれたのかもしれない、というのはあるまいか?

例えば今朝。

駅までの道をトコトコ歩いていると、後ろから、年の頃マザーと同じくらいのオバタンがタワシを抜かして行った。

パサパサの髪。

ショートカット。

決してスリムではないフォルムに独特なファッションセンス。

仕方なくピチピチになったズボンと、何故かちょっとヒールがある細めのスニーカー。

バッグとは別に柄物テロテロ素材のポシェット。

ポシェットを抑える指にデカめの宝石がくっついた指輪。

そんなオバタンが意気揚々と歩いている姿に、えもいわれぬ安心感を覚える。

たぶんまだタワシがコタワシだったころ、自分の支度はとっくに終わり、三面鏡の前でオシャレ支度をしているマザーを見上げていたなんでもないような事と、これからお出かけをするというウキウキの気持ちがリンクしていったんだろう

だから今、独特なファッションセンスのぽっちゃりオバタンを見ると、安心感の混じったウキウキが勝手に蘇るのだと思う。

これが夏木マリ氏よろしくほっそり本物のオシャレたんではタワシは安心はしないのである。

一見人は似たり寄ったりで、流行の服や髪型をしていれば余計に似たり寄ったりなんだが、実のところその外見とは裏腹に内面はとてもとてもバラエティー豊かである。

それが流行りという縛りの中で見えづらくなるのは、もしかしたら残念な事なのかもしれない。

少なくともタワシは、であるが流行の服を着ている人よりも、上野は東京国立博物館前の広場で夏だろうが皮を身に纏い、リーゼントとポニーテールでロカビリーを踊っている人のほうが、俄然カッコイイな、と思うタイプである。

コタワシのころ、ロカビリーのお兄さんお姉さんに優しくしてもらったんだろうか。

なんだか久々の頭スッキリタワシちゃんで言葉が止まらず何を問うていたか忘れてしまったが、そう、意味もなく感情が上下左右に揺さぶられると思っている事柄の中には、実はバシッと決まる答えが存在しているかもね、という話である。

また逆に、自分を探しに外へ外へと旅に出ても答えなんか本当はなくて、今ここにいる自分がこれでいいのだ、と決めた答えをきちんと味わう決心こそが重要で、なぜなら答えが自分の外にある限り、人はいつでも誰かのせいにして、新しさの発見へと旅立つ言い訳ができるが、今ここにいる全力の自分が出した自分の中の答えなら、これ以上何もないのだ。

少なくとも今は。

誰のせいにもせず、前向きに諦めることは案外自分が自分であるために必要な事なのかもしれない、と言いたいのかもしれない。

どちらにせよ今週を越えれば来週は三連休が待っていて、タワシは今からそわそわしているし、まだ指を2回折り返さないとやってこない寂しさを抱えて今日も淡々と書き、生きるのである。

 

ぽ氏をはじめ、タワシがダウンしていた2日間、優しいコメントをくれたみなはん、本当は涙がポロリンチョしそうに嬉しかった事をここに述べます。

ありがとありがと。

タワシは全快になりましてウザイくらいに元気玉。

それではみなはん、また明日。

この場所で。

いつのまにか「この場所」という言葉がひとり歩きをして「本物の場所」を作っていたことを気づかせてくれた、そのことにも涙がポロリンチョしそうだったけれど、どっちの涙もポロリンチョしないところがタワシのわっるいところであり、チャームポイントでもあるかもね。

ありがとありがと、という言い回しを気に入っている。

暑苦しくなく、クールでもなく、ちょうどいい。

 

終わりそうで終わらないタワシの徒然であるが、また明日も、みなはんこの場所で。

アディオス、アミーゴ。

ありがとありがと。

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