例えば誰かがなんか言って、そんな話初めて聞いて知らんし何何それ何?は疑問だと思うのだ。
疑問てのは、わからん、知らんからおせぇて的に問うというニュアンスだと思っている。
何を言っているのかわかっていてそれに納得いかなくてじゃあなんでどこが納得いかないのかっつうとここがこういう理由で。
で、だから答え聞かせてよ、ならまだまだ疑問だと思う。
しかしなんつうかもはや納得いかない、の先に相手をぶっ潰す為の目つきとか冷笑とか話し方とか、それって違うよね?こうでこうでこうだから間違ってるよね?な流れは最後にファッションでクエスチョンマークつけてっけどそれ完全に否定だぜ?と思うのだ。
クエスチョンマークは相当便利で何にでもつけられる。
朝起きてマザーの用意してくれたブレックファストに怪訝な顔を引っ提げて「これなに?」つったら雷ゲンコツが飛んでくるし、目をキラキラさせて「これ何?」つったらどこどこの誰々さんがくれた珍しい野菜なんだってば、とかって話は弾む。
つまり疑問は話が弾むが否定は人を不快にさせる、というのが持論である。
クエスチョンマークは多様すぎて多用されすぎたのだ。
タワシにはもうハンガーの先っちょにしかみえない。
どこでもぶら下がり揺れている。
はぁあ。
相手が明らかに間違っていたとしても、そっと疑問を置き続けていけば相手はおそらく自分で気づくはずだ。
あれ、ワイ、間違ってたぞ、なんつって。
それはとても時間がかかるけれど建設的な関わり方だと思う、タワシにはできないが。
えへへ。
マッチよりも着火のはやいタワシちゃんはすぐにカッとなるからね。
カッとしてもうまく会話を提供できる人を尊敬する。
カッとしてなくてうまく会話してる人ではなく、カッとしているのに、な人を。
どうしたらうわずらず、やりすぎず、引きずらずにあんな風に対応できるんだろうか。
人にも自分にも優しいやり方だと思う。
何人か目に浮かぶあの人たちはスゲ〜と思う。
少しずつ、なが〜く一緒にいれば少しは素敵が染るだろうか。
おじいちゃんやおばぁたんや、若人や、おっちゃんや、遠くや近くにいろんなともだちがいていいんだよな。
1年に1回しか会わないのも全然会わないのもしょっ中会うのもなんでもありだよな。
何が重要って、お互いおんなじくらいに大切に思ってるかどうかで、人への想いかたって癖があって、だからたぶん同じように人を想える人とは仲良くなるね。
性格とかよりたぶんそっち。
ともだちに片思いはないね。
みんな両思いであるべきだと思う。
疑問と否定から何でともだちは両思いであるべきだになったんだ?
わからん。
それではみなはん、このへんで。
また明日。
この場所で。