いつもなら先頭か2番目で始発を待つのだが(何本かに1本この駅の始発が来るのでそれを待って座ることにしている)、今日は既に前に3人並んでいた。
隣の列も似たようなものだった。
おぅ。
しかし全員が全員始発を待っているわけではなく、次の電車がくると乗り込む人もいるし、面子を見るといつも始発待ちをしているのは2人だった。
もう1人は制服を着た学生で、熱心に携帯電話を覗いていた。
彼女はタワシの前の前に立っていた。
そして次の電車が来ると中を覗きこむが乗らなかった。
こういう光景はよく見たので、乗りたい電車があるんだろう、と思っていた。
始発だ。
彼女はまだ熱心に携帯電話を覗いていて気づかない。
始発がホームに入ってくると皆殺気立つ。
普通のラッシュなら座れればラッキーでも始発となるとお気に入りの場所に座りたいのだ。
この殺気が嫌だな、といつも思っている。
なぜなら後ろから、押しはしないがbagが触れてくる感触が気持ち悪い。
もっと前に行け、と沈黙の圧をかけてくるあの気味の悪い感じ。
いよいよ電車がホームにスライディングし始めると、前に立っていた人間が、その前の、携帯電話に夢中で微動だにしない学生を無言で追い越して行った。
それにならって隣の列の人間も彼女を追い越した。
彼女はブロックの外に弾き出された。
え。
乗らないの?頑なな横顔が悲しそうに見えたのだ。
携帯電話を覗き、動かない。
もともと次の電車に乗るつもりだったのか、殺気立つ塊に怯えたのか。
こういう場面に遭遇するとタワシの気持ちは一気に沈む。
悲しいストーリーを想像して、今自分はどうしなきゃいけないというんだ、と考え出してしまう。
一時期それが嫌で嫌で人のいる場所で大音量でイヤフォンをつけて声が聞こえないようにしたり、喫茶店では頬杖をつき、手で視界を狭くした。
隣で話している人間がそこにはいない誰かをバカにしたような話し声が聴こえると、その誰かが酷い目にあうんじゃないか、話を聞いてしまったのに助けないのはとてもいけない事なんじゃないか、でも助ける勇気がないという罪悪感とか見知らぬ誰かの事の成り行きの一部分だけを聞いただけのタワシに何がわかるんだ、という真っ当な考えとかいろんな思いが醜い塊になって頭にズシンと落ちてきた。
だから何も見たくないし、聴きたくなかった。
とにかく疲労した。
完全に病気。
それはわかっていた。
しかし思考は止まらなかった。
根本的には何も変わらないタワシなので、今朝みたいな状況は一気にタワシをあの世界に引きずり下ろす。
しかし今日はこれをブログに書こうと思ったし、文字を打ち始めたらいつのまにか現実に引き戻された。
なんでだろう、と考えた。
そうか、雑用(さまざまの細かい用事)のせいだ。
いや、おかげだ。
大きな夢を抱いて、大きなことにしか手をつけないことを諦めてから、目の前の、あぁもう今日はやめてしまおうかと思うような、逆で言えば明日やればいいじゃんか、というような事をやるようにしたら忙しくて頭を切り替えるしか答えはなかった。
んだと思う。
今日が終わる前に、というのはなかなかいつでもギリギリで、仕方なく適当で、今日はこれでいいのだ、と前向きに諦めるしかなかった。
それがいろいろと功を奏したような気がしている。
雑用が山のようになった時、たぶんそれは細かくなんかなくて、繊細でかつ大きな景色として見えるんじゃないだろうか、と期待して今日も目の前の事をやっている。
それではみなはん、また明日。
この場所で。