頭痛は何かの罰なのか?

相変わらず気づかぬくらい少しずつ、タワシマニアが増えている。

この、チビチビ増える感じこそが本物だろがっつって去勢を張っている。

ありがてぇ。

何ヶ月か前には、お、今日はだいぶんアクセスがあるな、と思って喜んでいたのに最近ではそのアクセス数では、あれ?悲しみの少なさだなんて思うんだから大したもんだ。

いっぽうで夜の夜中までアクセスを見にいかない日もあったりして、やはり達観的な感覚は最初からとか、すっ飛ばしてではなく、酸いも甘いも噛み分けてから到達するのがいいもんだぜと、ほくそ笑む。

どれだけ愚痴をこぼし、苦虫を噛み潰し、嫉妬したことか。

この気持ちは達観というより「飽き」寄りなのかもしれない。

「疲労」に近いのかもしれない。

その意味さえ考えないのはつまりナチュラルであるということではないだろうか。

そんな事を言っても1年以上の月日が必要だったし、なんならその前、ずっと前からいちいち気にする性質だったのだから1年ではきかない。

それにチビチビ増えているのであってまだまだこれからだ。

それでも自慢したいのだ。

勢いで始めたYouTubeも三日坊主を昨日超えた。

ショート動画にした初日が100近いアクセスで飛び上がるほど喜んだのに翌日は20ほどで、また悲しみの少なさを嘆いていたら昨日のシャルロットは200近いアクセスなもんでもはや考えても無駄だと知った。

自分ができるのはこれを続けることだけだ。

あとは見えぬ力にまかせるだけだ。

何十万回というアクセス数や登録者数を、自分がYouTubeを観るだけの側にいた時は、へぇ〜。くらいにしか思っていなかった。

それが動画をあげる側になった途端に巨大な山がどどんと聳え立つデカイ壁なんだと目の当たりにした。

人の苦労ほど、見えないくせに軽視しがちだよな、とつくづく、つくづく知ってしまった。

みんなみんな偉いわ。

生きることに麻痺しているが、たった1日の中でさえ、どんなに酷い言葉で傷つけられたか、思い出さなくて良いがそういうクソみたいな悪意を静かに飲み込んで明日を生きているのだ。

見上げたもんじゃないかと思う。

自分が頑張った事を知っているのは所詮自分だけなのだ。

過小評価せず、毎日自分を褒めようじゃないか、人知れず。

そして誰かのことも、いつかは自分のためでなく、ちゃんとその人のために褒めれるようになろうじゃないか。

その辛さを、頑張りを自分が乗り越えたから、よく頑張った、よく乗り越えた、と自分のことは何も言わずに褒める事ができるようにいつかはなりたい。

まだまだそんな日は来ない。

そこにたどり着くまで酸いも甘いも噛み分けてるんだろう。

つらいつらい。

 

さて。

今年もあとちびっと。

元気に過ごしたる、と思う木曜日である。

 

それではみなはん、また明日。

眠れない夜も眠たい夜も今日の終わりにNIGAOE Portraitで会いましょう。

登録をどうぞお忘れなく。

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