毎日言葉を使って発信しているタワシであるが、取り扱い大注意だと思っている。
自分はしっかり使えている、とは決して言えないが、それでも丁寧に使っているつもりだ。
言葉はそれだけで完結してしまいそうだが、決してそうじゃない。
コトバだけでは埃みたいに軽く、簡単に言えばゴミである。
コトバは、行動とセットになって初めて言葉になる。
紙と鉛筆の関係のようなものだ。
紙だけでは成立しない。
鉛筆だけでも成立しない。
ふたつがマリアージュしてお手紙として成立するのである。
もっと噛み砕いて言うなら「明日15時に行くね」とメールをしておいて来なかったらどうだろう。
昨日までは贈りものだった「明日行くね」は15時を過ぎた途端にゴミになる。
ひと昔前は言葉は直接伝えるか、家に電話をするか、手紙を書くくらいだったが今じゃ携帯電話ひとつですぐに言葉が相手に届いてしまう。
便利だが、軽い気持ちでジャンジャカ使えば人は傷つき、そのうち離れていくだろう。
そういう時に、何にもしてないのにアイツがいきなり離れていったとか言っている人間をしばしば見るが、それは違う。
愛想を尽かされたのだ。
見誤ってはいけない。
悲しみは離れていった相手に訪れていたのだ。我慢の限界だったのだ。
気づかないというのはとても悲しい出来事だが、人はわざわざ嫌われてまで気づかせてあげようなんてしないのだ。
自分で気づくしかないのである。
周りに誰もいなくなってしまう前に。
暗いことを書いてしまった日曜日だが、もう書いてしまったのでこのままアップしてしまう。
そんな夜のタワシである。
それではみなはん、また明日。
眠れない夜も眠たい夜も今日の終わりにNIGAOE Portraitで会いましょう。
登録をどうぞお忘れなく。