これはおばーたんとかおじーたんが普通に使っていた言葉だが、時代と共にあまり使われなくなった類の表現法だと思う。
多感な時期におばーたんたちの言葉や概念のエッセンスを大いに浴びていれば無意識にいつまで経っても使い続けるだろうが、別に使わなくたって生活に、人生に不便はない。
戦前、多くの日本人は当たり前に、見えないものは存在していると思っていたらしい。
たしかにそんな気がする。
そして戦後、こういうものの考え方は消えていった、と。
戦前を生きた人たちはもうだいぶんいなくなってしまった。
あの頃のものの捉え方が真実だとか嘘だとかが言いたいわけではなく、感覚のようなものは活字からは得られないのではないか、と思ったのだ。
活字には限界があるのではないか、と。
だとすると片手に収まる、まことしやかで膨大な情報では「繋ぐ」ことができないんじゃないか、と。
今、よっこらしょという些細な言葉をピンチ・インし、ずいぶん壮大な話にしてみた。
これを今度はピンチ・アウトしてみると日常で誰かに会ったり、会って話したりする事はとても貴重なことなんじゃないかと思ったのである。
うまく話がまとまらなくてごめんなんだけれど、大事な事を忘れてしまえる世の中だから、大事なことはなんなのか、みなはんも時々考えてみたらいかがでしょうか。
なんつって。
いや別にいいんです。
自由に生きましょう。
それではみなはん、また明日。
眠れない夜も眠たい夜も今日の終わりにNIGAOE Portraitで会いましょう。
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