宇多田ヒカル氏がサントリーのCMに出た時に、サントリーをサントーリィと発音したのでなるほどサントリーの発音は本当はサントーリィだったのか、と感心したが、そこはかとない違和感が拭えず調べてみると、サントリーは赤玉ポートワインからの真っ赤な太陽のサンと、創業者である鳥井さんのトリイから来てると知った。
え。
英語じゃないじゃん。
ではなぜ宇多田氏はサントリーと言わずにわざわざサントーリィと言ったのか。
さて本日は「大名茶人 織田有楽斎」展を観にサントリー美術館へ行ってきた。
茶道具やら調度品やらを眺めながらタワシは閃いてしまったのである。
昔の人の心の豊かさと、なぜ自分があまり美術館に興味がないのか、も。
展示された調度品を見ていると、どれも見つめられる事を前提に作られていた。
慎重に丹念につくるんだからそうなるよ。
しかしそれは調度品。
あくまで日常で使われるためのものだったわけである。
よく使うけれど使う前に眺めずにはいられず、使いながら眺めてしまい、終ってからも眺めちゃうんだから、といった具合だったんだろう。
つまりこれらはあくまで使う人のための美しい美しい余興である。
使うだけじゃなく、眺めるだけじゃなく。
タワシはこの調度品を使う予定はない。
よってこのハーモニーは成り立たない。
それがタワシの足が美術館へと向かない理由だ。
間違いない。
そう考えると昔の人は時短なんてイミフなんだろうな、と思うわけである。
だって喉が渇いて仕方ないのに茶碗を愛でたりとか、なかなかしない。
使う前に美しさを堪能しない。
機能だけを残し、それ以外を排除したシンプルとは完全に真逆である。
おそらく昔は無駄を省いてどれだけはやくゴールするかより、ゴールまでの道のりをどれだけ楽しめるかってことの方が大切だったんだろうな。
そんなことを思いながらギロッポンを後にした、上着着ないで出かけたから死ぬかと思ったタワシの土曜日のような金曜日である。
それではみなはん、また明日。
眠れない夜も眠たい夜も今日の終わりにNIGAOE Portraitで会いましょう。
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