鑑賞されるアート

私たちはアートを鑑賞する。

作家がつくりあげたアートそのものは最初から死んでいる。

例えば紙と筆と絵の具は最初から死んでいる。

かろうじて生きているのは作家の想いだけだ。

しかしそれはとてもじゃないが計り知ることはできないし、朽ちていくだけである。

作家はいつか作品への想いを思い出せなくなり死んでいくから。

アートは鑑賞する側が勝手に何を思うかで価値が問われるんだと思う。

自分自身は全く何も感じなかったアートでも、有名な評論家や有名人が感じた想いを言葉や文章にすることで、その文字を鑑賞したことでさっきまで無価値だったアートに価値を見つけちゃったりするのだ。

それってアートにじゃなく、それを語った人に感銘受けてないか?とかおもうんだけど。

まぁ世界がそうやって動いているなら仕方ないよね。

アートとは言葉である。

と、タワシは思う。

なんちって。

もしも鑑賞されているアートに感受性があったらアートは作家の手を離れてからも刻々と変化していくよね。

常に誰かに鑑賞されているアートは美しくなっていくかもしれない。

見向きもされないアートは感情をなくしてしまうかもしれない。

文句ばかり投げつけられたアートはどうだろう。

10年前に観た時は感動したのに今日観たら何にも感じなくなっていた、なんてよくある話だが、あなたが変わったんじゃなく鑑賞され続けたことで作品自身が変わってしまったのかもしれないね。

なんちって。なんちって。

あぁ、こっからもっと書きたいことがあるけれどたぶんちょっと過激だし偏っている気もするのでやめておく。

なんでこの話書いたんだっけか。

忘れてしまう日曜、夜の涙はまだ枯れない。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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