読書の作法

「新しい知識を得るためには、すでに持っている知識を利用して、その知識を抽象化することにより、その範疇にある新しい知識を認知可能なものとして、新しい知識を学習する必要があります。」

と苫米地英人氏の本に書いてあり、朝の激込み異常列車の中で「そ、それですわっ!」と叫びそうになる。

タワシは文芸書以外の本を読み進めるのが兎角苦手で、専ら読書は小説に限るのだが小説には、ビジネス書や専門書にある、あからさまな知識の伝授こそないが、物語を通してこの世の本質的なことはほぼ全て内包されている、と思っている。

タワシは文芸書以外の文体をのめり込むように味わう能力が乏しいのであまり読まないが、逆も然りで、時々読むそう言った類の本から物語を連想し、言ってる事は吉本ばななと同じだな、と思ったりする。

これって知識を抽象化していった時に必ず交わる点があり、点を読めたということは本質を捉えていることになるよね、と自己満足のしたり顔でニヤついている。

今。

こうやって思いがけず、過去に他人に言っても伝わらなかったことを、答え合わせできた時に自分が救われる。

読書の仕方も理由ももちろん自由だが、読書をすることで自分の中に知識や情報を蓄え、一人で想像し、楽しんだり、誰かの役に立つなら、とそれらを提供するスタイルの人間と「自分が頭の良い人間だと思われたい」とか、その人の悩みを餌にしてうまいことを言い、優越感に浸るために読書する人間がいる。

それは単に読書の作法が違い、流派が違うだけで自由だし。

しかし話をしていて楽しいかどうかに関わってくるので話す人はきちんと選択していきたいし、自分も常に自覚していたい。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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