小さい秋めっけた

わらわらと、手を繋ぎ幼稚園に通うチビヨちゃんたちの声が、モミジみたいなオテテが、ふらふらと危なっかしい足取りがなんだかとてもかぁいくて朝からふにゃららとなる。

神様が、おチビちゃんが愛されるための完全装備を与えた。

それが子供らしさかもしれん。

え、らしさって何よ、っつって、いやいや、そんなに怒らないでよ、ベイビー。

昔聞いたことがある話で、ベイビーの鳴き声が耳をつん裂くように届くのは、ベイビーはまだひとりじゃ生きていけないからだ、と。

だからどんなにざわついていても手を差し伸べる大人に聴こえなきゃなんないのだ、と。

そう考えればかぁいさだって同じでしょうよ。

らしさっつうのはさ、そう思ってたらやっぱりそうだったっつうやつで、目新しさはない。

チビヨちゃんもチビタくんもかわいいと思ったらほうらやっぱりかぁいぃじゃん、てことだ。

しかしそうは思ってなかったのにそうだったみたいな驚きからのかわいさはギャップであり、らしさじゃない。

例えばタワシはもうすぐ50になる初老だが、オテテがモミジである。

つまりびっくりさせてかぁいいのだ。

これは期せずしてして相手が勝手にタワシに下駄を履かせたも同然でありタワシになんの不手際も策略もないが、結果的に下駄を履いてしまっているわけで。世間ではよく

「らしさ」なんて嫌いよ、アタシ。

と言われるが、タワシ流のらしさはこんな風に思った通りかぁいいね、という事になり、倍々でめちゃんこかぁいいという事だ。

だからして、らしさはいいよね。

そしてギャップ萌えは、アンタアタイをいったい何だと思ってたのよ、になるよね。

まぁこうやって視方によって真逆になる世の中なわけで。

だから何だって何でもなくて。

どうでもいい、果てなくくだらん事を考えてニンマリしている時間はなんて贅沢なんだろう、と毎日怒り狂っているけれど毎日に感謝もしていて。

そうこうしてたら明日はフライディーなわけで。

 

それではみなはん、また明日。

この場所で。

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