列車は必ず大揺れに揺れるポイントがある。
毎朝地獄の鮨詰め列車に揺られて通勤しているが、気を抜くと尻もちをつくんじゃないかと思うくらいよろけるし、そんな時は何故か決まって周りの人間が散らばって転べるだけのスペースが生まれる。
不思議だ。
腹に力を入れてみたり、つま先をギュッと握りしめて立ってみたり、仁王立ちをしてみたりしても何の効力もない。
しかし今朝、仮説が浮かぶ。
いつもなら窓の外を眺めながら、あぁ、この辺りでいつも揺れんだ、と気合いを入れ目視し、力む場所。
付け加えておくとタワシは吊り革を触れないタイプなので常に自力でなんとかしている。
さて本日は目を閉じていた。
前の駅を通過し、次の駅までの間に揺れポがあるのは知っていたが、瞳を閉じたままただ感じてみた。
すると「ここ!」という場所は見えていないのに揺れる寸前に、これから揺れる方向とは反対側にふわっといったのがわかった。
あ、次揺れる。とわかったのだ。
そこでギュッと踏ん張れた。
あれ、平気だ、とすぐにわかった。
いつもの力みは完全にタイミングが遅すぎたんだと思う。
あのさ、これって物事には必ず前兆があるってことか?と、そう仮説を立てたのである。
という話なんだが、前兆を掴むためには結果につながる感覚器ひとつに神経を集中させるべきなんじゃないか。
つまり情報が多ければ良いってことでもないってこと。
結果に繋がる情報にのみアクセスすることで、勝手に感覚は研ぎ澄まされるしかなくなるのではないか。
手持ち無沙汰となった感覚器が眠る事で、エネルギーが一点に集中してしまうんじゃないか。
じゃあ他にどんな時、なんの役に立つんだと問われても答えはわからないんだけれども、無闇に情報を集める能力よりも、今はいらないって能力をかぎ分けシャットアウトする能力の方が成功率はあがるのではないか。
さらに言うと、新しい能力を身につけるというよりも今ある能力のどれかは必ず全ての結果に繋がっていると決断してしまったほうが成功率はさらにアゲアゲになるのではないか。
なんて事を地獄列車で考えた。
そんな週の始まりお月様の夜の下のタワシである。
それではみなはん、また明日。
この場所で。