対話に正体があるとしたらそれは共感か、理解か。
必ずしも思考に共感されなくとも、自分が相手に受容されているという安心感があれば良い対話になる。
また、必ずしも理解されなくとも、理解しようとしている姿勢を見ることができたら、相手に対する好感度は保たれて対話は成立する。
じゃあ受容なのかもしれない。
しかし知らん人をいきなり受容するなんてできないし、受容するふりは相手にすぐバレるので意味がない。
そうなると、過去でも未来でもなく「今」自分の目の前にいる、対話を良い時間にしようとする意思だけを受容する、でじゅうぶんなんじゃないかな、と思う。
目の前にいる人に対してそういう精神で対峙できたら、例えば立ち寄ったカフェや、スーパーの長いレジの行列でも粋な対話ができたりするんだろうな。
そうしたら今より少し、世界の孤独の濃度は薄くなって、世の中の色がきれいな色に変わっていくんだろうな。
ここで思うのが「心理的安全性」なんだけれど、この言葉の意味を深くは知らないのでトンチンカンなことをいうかもしれないけれど、心理的安全性→安心感として、人がどんな事で安心するのかは千差万別だから、安心感という名のもとで自己中心的な考え方やわがままを許容しなければならなくなって、ゴチャつく気もしていて。
思えば思うほど対話は重要だしムズイな、と唸っている。
対話の場がもっともっと広がったらいいな。
それではみなはん、また明日。
この場所で。