【情と触】の徒然で書いた事が本日の、カクレブラインドタッチKお兄さんの授業で確信に近づいてしまった。
強い感情が湧き上がった原因が、理由として思い起こされうる出来事そのものから来ているのではなく、全く関係のない日常の、些細な習慣の変化、感覚の小さな違和感の蓄積からくるのではないか、というあのややこしい仮説の話。
覚えていない人しかいないであろうあのカセツ。
『対話』はテトリスである。
緻密に積み重なり一瞬で落下する。
落下のスピードが緻密さに負けた時、ブロックは堰き止められゲームオーバーだ。
対話もとても緻密である。
その時の場所、騒音、座り心地、邪魔者、背景、相手の目線、相づちの回数、そういう小さなことの全てが、本人の知らぬところで大きな影響を与える。
そのせいで相手の思いとは裏腹な印象を与えている可能性は大いにある。
対話とは何だろう。
私の思う対話は「気づき」だ。
私たちはきっとみんな気付きたいのだ。
そのために対話する。
気づくためには出来るだけ本題に集中したいのに、それを邪魔する環境下において人は相手が悪いんだ、と思ってしまうんじゃないだろうか。
世の中の殆どは「いい人」だ。
それなのに人は人間関係の悩みに人生のほとんどの時間をかけている。
だとしたら思い違いしかないだろう。
嫌な事の殆どが思い違いだと思えたら、もっと楽になるだろうか。
いや多分そんなに簡単じゃない。
ならば対話も人生もテトリスじゃないか。
もはや我々はメタバースの世界を生きているではないか。
ムムム。
あり得なくもない。
ねむい。
脳みその受話器はそっと置かれました。
おやすみなさい。
続きはない。
グンナイ。